芳子は遂に父親の前に出た

「だッて、父様に久し振じゃありませんか。どうせ逢わないわけには行かんのですもの。何アにそんな心配をすることはありませんよ、大丈夫ですよ」「だッて、奥さん」「本当に大丈夫ですから、しっかりなさいよ、よくあなたの心を父様にお話しなさいよ。本当に大丈夫ですよ」 芳子は遂に父親の前に出た。鬚《ひげ》多く、威厳のある中に何処《どこ》となく優しいところのある懐《なつ》かしい顔を見ると、芳子は涙の漲《みなぎ》るのを禁《とど》め得なかった。旧式な頑固《がんこ》な爺《おやじ》、若いものの心などの解らぬ爺、それでもこの父は優しい父であった。母親は万事に気が附いて、よく面倒を見てくれたけれど、何故か芳子には母よりもこの父の方が好かった。その身の今の窮迫を訴え、泣いてこの恋の真面目なのを訴えたら父親もよもや動かされぬことはあるまいと思った。「芳子、暫《しばら》くじゃッたのう……体は丈夫かの?」「お父さま……」芳子は後を言い得なかった。「今度来ます時に……」と父親は傍に坐っている時雄に語った。「佐野と御殿場でしたかナ、汽車に故障がありましてナ、二時間ほど待ちました。機関が破裂しましてナ」「それは……」「全速力で進行している中に、凄《すさま》じい音がしたと思いましたけえ、汽車が夥《おびただ》しく傾斜してだらだらと逆行しましてナ、何事かと思いました。機関が破裂して火夫が二人とか即死した……」「それは危険でしたナ」「沼津から機関車を持って来てつけるまで二時間も待ちましたけえ、その間もナ、思いまして……これの為めにこうして東京に来ている途中、もしもの事があったら、芳(と今度は娘の方を見て)お前も兄弟に申訳が無かろうと思ったじゃわ」 芳子は頭を垂れて黙っていた。「それは危険でした。それでも別にお怪我もなくって結構でした」「え、まア」

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