独立することも出来ぬ修業中の身

「本当に約束せぬというのが不満だと言うのですじゃろう」と、父親は言葉を入れて、「けれど、これは先程もよく話した筈《はず》じゃけえ。今の場合、許可、不許可という事は出来ぬじゃ。独立することも出来ぬ修業中の身で、二人一緒にこの世の中に立って行こうと言《い》やるは、どうも不信用じゃ。だから私は今三四年はお互に勉強するが好いじゃと思う。真面目ならば、こうまで言った話は解らんけりゃならん。私が一時を瞞着《まんちゃく》して、芳を他《よそ》に嫁《かたづ》けるとか言うのやなら、それは不満足じゃろう。けれど私は神に誓って言う、先生を前に置いて言う、三年は芳を私から進んで嫁にやるようなことはせんじゃ。人の世はエホバの思召《おぼしめし》次第、罪の多い人間はその力ある審判《さばき》を待つより他《ほか》に為方《しかた》が無いけえ、私は芳は君に進ずるとまでは言うことは出来ん。今の心が許さんけえ、今度のことは、神の思召に適《かな》っていないと思うけえ。三年|経《た》って、神の思召に適うかどうか、それは今から予言は出来んが、君の心が、真実真面目で誠実であったなら、必ず神の思召に適うことと思うじゃ」「あれほどお父さんが解っていらっしゃる」と時雄は父親の言葉を受けて、「三年、君が為めに待つ。君を信用するに足りる三年の時日を君に与えると言われたのは、実にこの上ない恩恵《めぐみ》でしょう。人の娘を誘惑するような奴《やつ》には真面目に話をする必要がないといって、このまま芳子をつれて帰られても、君は一言も恨むせきはないのですのに、三年待とう、君の真心の見えるまでは、芳子を他に嫁けるようなことはすまいと言う。実に恩恵ある言葉だ。許可すると言ったより一層恩義が深い。君はこれが解らんですか」 田中は低頭《うつむ》いて顔をしかめると思ったら、涙がはらはらとその頬《ほお》を伝った。 一座は水を打ったように静かになった。 田中は溢《あふ》れ出《い》ずる涙を手の拳《こぶし》で拭《ぬぐ》った。時雄は今ぞ時と、「どうです、返事を為給《したま》え」「私などはどうなっても好うおます。田舎に埋れても構わんどす!」 また涙を拭った。「それではいかん。そう反抗的に言ったって為方がない。腹の底を打明けて、互に不満足のないようにしようとする為めのこの会合です。君は達《た》って、田舎に帰るのが厭《いや》だとならば、芳子を国に帰すばかりです」「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」

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