時雄は叱《しか》るように言って

 芳子の顔は愈※[#二の字点、1-2-22]《いよいよ》赧《あか》くなった。時雄は激さざるを得なかった。事実は恐しい力でかれの胸を刺した。 時雄は立って厠《かわや》に行った。胸は苛々《いらいら》して、頭脳《あたま》は眩惑《げんわく》するように感じた。欺かれたという念が烈しく心頭を衝《つ》いて起った。厠を出ると、其処に――障子の外に、芳子はおどおどした様子で立っている。「先生――本当に、私は焼いて了ったのですから」「うそをお言いなさい」と、時雄は叱《しか》るように言って、障子を烈しく閉めて室内に入った。

[#8字下げ]九[#「九」は中見出し]

 父親は夕飯の馳走《ちそう》になって旅宿に帰った。時雄のその夜の煩悶《はんもん》は非常であった。欺かれたと思うと、業《ごう》が煮えて為方がない。否、芳子の霊と肉――その全部を一書生に奪われながら、とにかくその恋に就いて真面目《まじめ》に尽したかと思うと腹が立つ。その位なら、――あの男に身を任せていた位なら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買えば好かった。こう思うと、今まで上天の境《きょう》に置いた美しい芳子は、売女《ばいじょ》か何ぞのように思われて、その体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜は悶《もだ》え悶えて殆《ほとん》ど眠られなかった。様々の感情が黒雲のように胸を通った。その胸に手を当てて時雄は考えた。いっそこうしてくれようかと思うた。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、種々《いろいろ》なことが頭脳《あたま》に浮ぶ。芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬《やるせ》なき恋を語ったらどうであろう。危座《きざ》して自分を諌《いさ》めるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。それとも又せつない自分の情を汲《く》んで犠牲になってくれるかも知れぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明かな日光を見ては、さすがに顔を合せるにも忍びぬに相違ない。日|長《た》けるまで、朝飯をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モウパッサンの「父」という短篇を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後烈しく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それを又今思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛《さかん》にそれと争った。で、煩悶《はんもん》又煩悶、懊悩《おうのう》また懊悩、寝返を幾度となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた。 芳子も煩悶したに相違なかった。朝起きた時は蒼《あお》い顔を為《し》ていた。朝飯をも一|椀《わん》で止した。なるたけ時雄の顔に逢うのを避けている様子であった。芳子の煩悶はその秘密を知られたというよりも、それを隠しておいた非を悟った煩悶であったらしい。午後にちょっと出て来たいと言ったが、社へも行かずに家に居た時雄はそれを許さなかった。一日はかくて過ぎた。田中から何等の返事もなかった。 芳子は午飯《ひるめし》も夕飯も食べたくないとて食わない。陰鬱《いんうつ》な気が一家に充《み》ちた。細君は夫の機嫌《きげん》の悪いのと、芳子の煩悶しているのに胸を痛めて、どうしたことかと思った。昨日の話の模様では、万事円満に収まりそうであったのに……。細君は一椀なりと召上らなくては、お腹が空《す》いて為方《しかた》があるまいと、それを侑《すす》めに二階へ行った。時雄はわびしい薄暮を苦《にが》い顔をして酒を飲んでいた。やがて細君が下りて来た。どうしていたと時雄は聞くと、薄暗い室に洋燈《ランプ》も点《つ》けず、書き懸けた手紙を机に置いて打伏《うつぶ》していたとの話。手紙? 誰に遣《や》る手紙? 時雄は激した。そんな手紙を書いたって駄目だと宣告しようと思って、足音高く二階に上った。「先生、後生《ごしょう》ですから」

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