田中は翌朝時雄を訪うた

[#8字下げ]十[#「十」は中見出し]

 田中は翌朝時雄を訪うた。かれは大勢《たいせい》の既に定まったのを知らずに、己の事情の帰国に適せぬことを縷々《るる》として説こうとした。霊肉共に許した恋人の例《ならい》として、いかようにしても離れまいとするのである。 時雄の顔には得意の色が上《のぼ》った。「いや、もうその問題は決着したです。芳子が一伍一什をすっかり話した。君等は僕を欺いていたということが解った。大変な神聖な恋でしたナ」 田中の顔は俄《にわ》かに変った。羞恥《しゅうち》の念と激昂《げっこう》の情と絶望の悶《もだえ》とがその胸を衝《つ》いた。かれは言うところを知らなかった。「もう、止むを得んです」と時雄は言葉を続《つ》いで、「僕はこの恋に関係することが出来ません。いや、もう厭《いや》です。芳子を父親の監督に移したです」 男は黙って坐っていた。蒼《あお》いその顔には肉の戦慄《せんりつ》が歴々《ありあり》と見えた。不図《ふと》、急に、辞儀をして、こうしてはいられぬという態度で、此処《ここ》を出て行った。

 午前十時頃、父親は芳子を伴うて来た。愈※[#二の字点、1-2-22]《いよいよ》今夜六時の神戸急行で帰国するので、大体の荷物は後から送って貰《もら》うとして、手廻の物だけ纒《まと》めて行こうというのであった。芳子は自分の二階に上って、そのまま荷物の整理に取懸った。 時雄の胸は激してはおったが、以前よりは軽快であった。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思うと、言うに言われぬ侘《わび》しさを感ずるが、その恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠《すくな》くとも愉快であった。で、時雄は父親と寧《むし》ろ快活に種々なる物語に耽《ふけ》った。父親は田舎の紳士によく見るような書画道楽、雪舟、応挙、容斎の絵画、山陽、竹田《ちくでん》、海屋《かいおく》、茶山《さざん》の書を愛し、その名幅を無数に蔵していた。話は自《おのずか》らそれに移った。平凡なる書画物語は、この一室に一時栄えた。 田中が来て、時雄に逢いたいと言った。八畳と六畳との中じきりを閉めて、八畳で逢った。父親は六畳に居た。芳子は二階の一室に居た。「御帰国になるんでしょうか」「え、どうせ、帰るんでしょう」「芳さんも一緒に」「それはそうでしょう」

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